2011年10月29日土曜日

ナビスコカップ優勝

鹿島アントラーズ 1-0 浦和レッズ

9年ぶり4度目のJリーグカップ制覇。


小金井公園で行われた東京都の
総合防災訓練に参加しました。

私は被災地内の仮想の災害拠点病院に
医療支援に入るDMAT役。

病院敷地に陸上自衛隊第一後方支援連隊が
手術機能のある車両を展開して、
病院機能を補填していました。



2011年9月8日木曜日

中秋節

開発途上国の地方の病院とは思えないほどの医療レベルの
ホアビン省病院ですが…


1つのオペ室内で同時に2つの別々のオペを行うことも…
この写真では骨折の患者と甲状腺腫瘍の患者のオペ中。

まぁ、1つのベッドに複数の患者が寝ることもあるので、
これくらいのことは…
いいのかな???

しかし、CTがあったり、日本では薬価が10万円くらいする
新生児呼吸窮迫症候群用のサーファクタントを使用していたりと
レベルの高い医療を提供しています。



ホアビン省病院小児科スタッフとのグループワーク(GW)。

ベトナムの小児科領域の問題点の抽出と
それに対する取り組みがGWの目的ですが、
ホアビン省病院小児科の問題点に特化してしまっています。

カウンターパートのハイ小児科副部長とホア看護師長は
とても多忙なため、GWの時間もあまりとれず…

彼女たちの負担を極力減らしながら、
問題点への介入と具体的なアクションをしようということになりました。

詳細は後日。


ハイ先生から小児科の中秋節のパーティーにお招きいただきました。


左から、ハイ先生と子どもたち、余興を披露する日本人、ホアさんと5か月のbaby。

ホアビン省病院の小児科スタッフが子ども連れで集まって
カラオケで盛り上がっていました。

2011年9月7日水曜日

キムボイ郡

ホアビン省保健局とホアビン省病院のスタッフを
ピックアップしてホアビン省キムボイ郡に向かいました。

キムボイ郡は山岳地域に位置して人口は約10万人。
面積が広いので人々の医療機関へのアクセスは困難。

キムボイ郡病院は約3ヘクタールの敷地があり、
建築面積は約1ヘクタール。

病床は120床で常勤職員は77人。
中級薬剤師が6名在籍。

満床率は2011年上半期が122%。

この病院はホアビン省病院からDOHA活動を受けて、
コミューンヘルスセンターへのDOHA活動を実施している。

2~3回目の帝王切開の場合は省へのリファーが義務付けられているが、
郡でも処置可能と判断した場合は事前に省に承諾を得た上で
郡で処置してもよいとのこと。
他の疾患に関しては、リファーするかどうかは郡の裁量に委ねられている。

昨年の郡病院での分娩数は1274件で、そのうち帝王切開は50件。


その後、キムボイ郡のクオイハコミューンを視察。
人民委員会とコミューンヘルスセンターを表敬。

クオイハヘルスセンターのスタッフは
医師1、准医師7、薬剤師1。

ヘルスセンターから郡へのリファーは分娩がらみが多い。

各村の11人のヘルスワーカーさんたちも集まってくれました。
一番遠くから来た人は7㎞程のところから
でこぼこ道をバイクで1時間ほどかけて来たそうです。

ヘルスワーカーはリプロダクティブヘルス(2歳未満の子の
身長・体重を毎月測定、妊婦の体重測定・食事指導・
妊婦健診スケジュール・ヘルスセンターで出産するよう指導)や
マラリア・デング熱等の感染症への対応(患者の発見・報告)
等を担当している。

ヘルスワーカーになるには3か月の研修が必要で、
国家基準の基礎的保健医療指標に基づいた活動を行っている。



日程がタイトなため(?)、
私の所感を全く書いていない…
ほかにもやることが…

2011年9月6日火曜日

ホアビン省

早朝、ホテルの周辺をお散歩。

ホテルの裏には周囲400~500m程の池があります。
池には生活排水が流れ込み、
異臭を放っている個所もありました。

しかし、魚がたくさん泳いでおり、
その一方で、ぷか~と浮かんでしまっている魚も…
さらには、川岸に打ち上げられてパクパクしている魚も…

池の周りにはたくさんのベトナム人がくつろいだり
散歩をしたりと自分の時間を楽しんでいました。

散歩道の途中で、どこかのオフィスの駐車場だと思うのですが、
メルセデス等の高級車が多数駐車されている場所がありました。


JICAベトナム事務所を表敬後にホアビン省に移動。

ホアビン省保健局を表敬して、
保健局長から省の保健医療の現状を聞かせていただきました。

ベトナムの人口は8500万人。
(人口増加抑制のために二人っ子政策を行っています)
ホアビン省は人口83万人で7つの民族が住んでいます。

ホアビン省内の省病院や郡病院、
計14病院の平均満床率は約50%。

しかし、省病院は100%を超えているとのこと。

ベトナム人は郡病院よりレベルの高い省病院に行きたがるため、
このようなことが起こっています。

ホアビン省内には30名の薬剤師がおり、
内訳は修士の薬剤師が4名、専門薬剤師が4名、大卒の薬剤師が22名。

局長からは最後に3月11日の東日本大震災とその後の原発事故に対する
お見舞いの言葉をいただきました。
また、保健局の職員有志がそれぞれサラリーの1日分を出し合って
日本に義援金として送ってくださっていたそうです。


その後、ホアビン省病院を表敬。

ベトナムの病院は特別級-1級‐2級‐3級に区分されており、
ホアビン省病院は2級に指定されています。

現在、1級に指定されることを目指しており、
昇級すると予算も増えるとのこと。

省病院には学士の薬剤師が3名、
中級レベルの薬剤師(2年間の教育課程)が22名おります。

後日この病院で母子保健チームと小児科チームに分かれて
病院関係者と研修生とで現在抱えている問題点の把握や
対処法の検討を行う予定です。

ちなみに私は小児科チーム。


短い時間でしたが、院内を見学させていただきました。

薬局は午後5時に閉まってしまうということでまた後日…

検査科とICUとNICUを見せていただきましたが、
いずれも清潔感のある職場でした。

NICUには10個くらいの保育器orベッドがありましたが、
1つのベッドだけ3人の赤ちゃんが寝ていました。

呼吸状態の悪い赤ちゃんに小児科医がサーファクタントを
注入していましたが、
看護師たちに投与方法を細かく説明してあげていました。

ベトナムでは現在、医療の質の向上にも力を入れています。

そこへ小さな赤ちゃんを連れたお母さんが入ってきて、
3人で使用していたベッドに4人目の赤ちゃんが仲間入りしました。

2011年9月5日月曜日

バックマイ病院

バックマイ病院(1900床)はベトナムの3大拠点病院のひとつです。

日本のODAで改築、他のドナーが増築。

職員2300人+実習中の看護学生500人。
医師470人で付属の看護学校では年間300人が卒業。
薬剤師55人(15名は大卒レベルで他は2年間の中級レベル)。

外来3000~3500人。
満床率:2009年162.74%、2010年157.5%
CT5台、MRI2台。

2011年9月4日日曜日

ベトナムでの国際保健医療協力研修

タイトルの研修のために本日ベトナム入りしました。ハノイにあるノイバイ空港に到着。
この空港は日本の円借款で建設され、
現在拡張工事中とのこと。


空港で300米ドルをベトナムのドンに換金しました。
レートは1USD=20,830ドン
6,249,000ドンが手元にあります。
1.5リットルのペットボトル入りの水が露店で10,000ドン(約40円)。
本日宿泊のホテルでは同じような水が1.5USD。


ベトナムではバイクが多く走っています。
交通外傷が深刻な問題になっているとのこと。

ヘルメット着用の義務があり、
反則金はヘルメットの購入費用より高額なため
ほとんどの人はヘルメットを着用していました。


本日は移動のみ。
夕食は回転鍋を食べに行きました。
(もともとは回転寿司の店???)

一人ずつMy鍋が準備され、
レーンを流れてきた魚介・肉・野菜を煮て食すスタイルです。

何故かカエルの肉も流れてきたのでトライしました。
ニカラグアで食べたイグアナを思い出します。

結構繁盛していました。

2011年8月7日日曜日

3.12

10時過ぎに「いわき市内のS病院に電話が通じない」ため
現地に行って情報収集するよう下命あり。

(後日、クロノロを確認すると3月11日22時と3月12日1時31分・8時33分に
S病院の被災状況や「応援不要」との記載がありました。
→情報の集約はロジの基本…猛烈に反省)

クロノロを確認することなく、十日町消防の車両でS病院に到着。
停電・断水はあるものの、救外・手術は機能している。
患者も殺到しているわけではない。

S病院から救外スタッフの疲労が溜まっているので
サポートしてもらいたいとの要請がありましたが、
活動拠点本部の指示で撤収することになりました。

17時過ぎに福島医大帰着。


福島県内では各病院で対応不可能な患者数は少ないものの
福島第一原子力発電所の状況は悪化しており、
余震も収まる気配がありませんでした。

2011年7月17日日曜日

3.11→3.12 福島へ

病院を出た途端に渋滞にはまって立ち往生。
「車を降りて歩いたほうが速い」といえるような状態でした。

20分ほど経過した頃、たまたま警察車両が通りかかり
事情を説明してICまでの先導を依頼すると快く引き受けてくれました。

「交渉はface to faceが一番だ」などと私たちが行っている間にICに到着。


警察官にお礼を言ってお別れしました。

高速道路はもちろん通行止め。
「福島県に向かう医療チームである」と説明して進入させてもらいました。

那須を越えたあたりから道路に亀裂が見られるようになり、
段差に土嚢が積んであり、カラーコーンで注意喚起がされていました。
NEXCOの迅速な対応に脱帽でした。

多くの警察・消防・自衛隊等の緊急通行車両が走っていたので
出来るだけそれらの車両を追尾するようにしました。
(道路の損傷の程度がわかりやすいので…)

福島県に入る頃には雪も降ってきましたが、
スタッドレスが必要なほどではありませんでした。

埼玉県の消防車両の車列に○○市立医療センターの車両がいました。
国際緊急援助隊でパキスタンに一緒に行った看護師さんが
乗っているのかなと思いましたが、
私は運転中だったため確認できず…

途中、何度か緊急地震速報が鳴り響き
路肩に一時停止してやり過ごしましたが、
長野県で震度6強を観測する地震が発生した際には
今回の震災はまだこれからも被害が拡大していくのではないか
という思いが強くなりました。

参集拠点の福島県立医科大学附属病院の数km手前の
コンビニに立ち寄りましたが、
すでに商品陳列棚はほとんどのものが売り切れていました。

12日午前4時過ぎに福島医大に到着。

2011年7月16日土曜日

3.11 DMAT出場

DMAT本部では厚労省や被災県と連絡を取り合い、
岩手・宮城・福島・茨城の4県からのDMAT派遣要請に基づき、
EMISで全国のDMATに一斉通報を行いました。

その最中、テレビ画面に映し出された
仙台空港に押し寄せる津波の映像は
私たちの想像を超える被害が出ているのだと実感させました。

当院からも災害調査ヘリ・ドクターカー・一般車両で
3チームを派遣することになりました。

私は調整員として一般車両で福島県に行くことになりました。

私は国際緊急援助隊(派遣期間2週間)用には
いつでも出発できるように荷造りしたスーツケースを家に置いてありますが、
DMAT(派遣期間3日程度)用には個人装備の準備をしていませんでした。
(現在は、車のトランクに常備しています)

ドクターカーも一般車両もノーマルタイヤだったため、
スタッドレスに履き替えるためにそれぞれ違う店に行くことなりました。
しかし、交通渋滞にはまりかなりの時間をロスしてしまいました。

一度病院に戻り、病院から○○警察署に
最寄の高速道路のICまでの先導を依頼してもらいました。

その間、ドクターカーのチームはサイレンを鳴らして
緊急走行して茨城の参集拠点に到着。

私たちは2時間以上待っても警察車両は到着せず、
確認の電話をしても「現在、調整中」…

結局、22時30分に警察車両の先導をあきらめて出発…

2011年7月15日金曜日

3.11 発災時

その時、私は病院のオペ室にいました。
3人の病院実習中の薬科大学生のオペ室見学中。

開腹した患者さんの腫瘍を切除し始めた頃、
一人の看護師が「揺れてる…」とつぶやきました。

その後揺れは徐々に大きくなり、
閉じ込め防止のためオペ室の扉を開き、
無影灯を患者さんの上からどかし、
倒れそうなもの落下しそうなものを
各スタッフが抑えていました。

揺れはなかなか収まらず、
尋常ではない事態が起きていることだけは理解できました。

学生を動揺させないため
「この病院は免震構造だから、
この程度の揺れでは崩れることはないよ」
と言ってはみたものの、
学生にとってどの程度の気休めになっていたのかはわかりません…

揺れが収まってくると
執刀していた医師たちは「オペ、再開していいのかな…」
と戸惑っていましたが、
そこに「○番、再開しました」という声が聞こえてきました。

隣のオペ室の○○医師が早々にオペを再開したようです。

その声に促されるように私たちが見学中だった部屋でも
オペが再開されました。

ナースステーションに行き、インターネットをチェックすると
DMATの自動待機基準である震度6弱以上の
揺れを観測していることが確認できました。

オペ着を着替えて病院の第1会議室にいくと
すでに『DMAT本部』が設置されており、
多くの職員が複数回線ある災害時優先電話や
EMISを使用して情報収集・発信を行っていました。

2011年7月14日木曜日

国際保健医療協力研修

今夏、タイトルの研修を受講予定です。

コア研修とフィールド研修に分かれていて、
フィールドはベトナムが予定されています。


前回の投稿から半年が経ってしまいました。

その間、ニュージーランドの地震で
国際緊急援助隊の救助チームが派遣され、
その直後に東日本大震災が発生しました。

私もDMATの一員として福島県とDMAT本部で
活動を行っておりました。

その様子も今後投稿していきます。

2011年1月1日土曜日

天皇杯優勝

鹿島アントラーズ 2-1 清水エスパルス

マルキーニョスが抜けて今後が不安ですが、
ACLの出場権を取ってしまったので、
今年もまた4冠を目指してほしいです。


明けましておめでとうございます。

「ニカラグアから帰国してから5年でまた海外に出る」
という目標を立てておりましたが、
5年と半年ほど経ってしまいました…

その間、2回ほど国際緊急援助隊での派遣はありましたが…

今はDMATでの地位を確立することを優先しています。
今月の内閣府との訓練は邪魔が入ったために参加できませんが、
多少の障害は踏み潰してでも
周りの期待に応えるために研鑽していきます。